芥川龍之介『羅生門』本文と解説ー研究資料や補助資料付きー(芥川龍之介全集と今昔物語集)

スポンサーリンク
受験国語の対策
スポンサーリンク

■「羅生門」発表の頃の芥川の状況

 

さとう
さとう

この集に載っている短篇は、「羅生門」「貉」「忠義」を除いて、たいてい過去1年間――数え年にして、芥川が25歳の時に書いたものです。そうして半ばは、芥川たちが経営している雑誌「新思潮」に、一度掲載されたものです。

1.芥川龍之介「羅生門の後に」(『芥川龍之介全集 第二巻』一九九五 岩波書店)

 この期間の自分は、東京帝国文科大学の怠惰なる学生であった。講義は一週間に六七時間しか、聴きに行かない。試験はいつも、はなはだ曖昧な答案を書いて通過する、卒業論文のごときは、一週間で怱忙のうちに作成した。その自分がこれらの余戯に耽りながら、とにかく卒業する事のできたのは、一に同大学諸教授の雅量に負う所が少くない。ただ偏狭なる自分が衷心からその雅量に感謝する事のできないのは、遺憾である。

 自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いていた。恐らく未完成の作をも加えたら、この集に入れたものの二倍には、上っていた事であろう。当時、発表する意志も、発表する機関もなかった自分は、作家と読者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思わなかった。もっとも、途中で三代目の「新思潮」の同人になって、短篇を一つ発表した事がある。が、間もなく「新思潮」が廃刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは縁のない人間になってしまった。

 それがかれこれ一年ばかり続くうちに、一度「帝国文学」の新年号へ原稿を持ちこんで、返された覚えがあるが、間もなく二度目のがやっと同じ雑誌で活字になり、三度目のが又、半年ばかり経って、どうにか日の目を見るような運びになった。その三度目が、この中へ入れた「羅生門」である。その発表後間もなく、自分は人づてに加藤武雄君が、自分の小説を読んだという事を聞いた。断って置くが、読んだという事を聞いたので、褒めたという事を聞いたのではない、けれども自分はそれだけで満足であった。これが、自分の小説も友人以外に読者がある、そうして又同時にあり得るという事を知った始めである。

次いで、四代目の「新思潮」が久米、松岡、菊池、成瀬、自分の五人の手で、発刊された。そうして、その初号に載った「鼻」を、夏目先生に、手紙で褒めて頂いた。これが、自分の小説を友人以外の人に批評された、そうして又同時に、褒めてもらった始めである。

爾来ほどなく、鈴木三重吉氏の推薦によって、「芋粥」を「新小説」に発表したが、「新思潮」以外の雑誌に寄稿したのは、むしろ「希望」に掲げられた、「虱」をもって始めとするのである。

さとう
さとう

羅生門執筆当時の芥川の様子を自分で振り返っていることが分かる部分ですね。なかなか小説を世に出せなく、日々を送っていることが読み取れます。

 


2.芥川龍之介「あの頃の自分の事」(『芥川龍之介全集 第四巻』一九九六 岩波書店)

 それからこの自分の頭の象徴のような書斎で、当時書いた小説は、「羅生門」と「鼻」との二つだった。自分は半年ばかり前から悪くこだわった恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になるべく現状とかけ離れた、なるべく愉快な小説が書きたかった。そこでとりあえずまず、今昔物語から材料を取って、この二つの短篇を書いた。書いたといっても発表したのは「羅生門」だけで、    「鼻」の方はまだ中途で止まったきり、しばらくは片がつかなかった。その発表した「羅生門」も、当時帝国文学の編集者だった青木健作氏の好意で、やっと活字になる事ができたが、六号批評にさえ上らなかった。のみならず久米も松岡も成瀬も口を揃えて悪くいった。それから自分の高等学校以来の友だちの中には、一体自分が小説を書くのが不了見なのだから、匆々やめるがよいと意見の手紙をよこした男さえいた。

さとう
さとう

『羅生門』を「愉快な小説」と芥川が認識しているのには驚きですね。さらに当時はなかなか評価の対象になっていないのも分かりますね。今や「全日本人が高校で必ず触れる小説」と言っても過言ではないほど有名なんですけどね。

 


■「羅生門」の原話『今昔物語集』

先ほどの全集にもあったように、『羅生門』の元の話は『今昔物語集』にあります。平安時代、羅城門の上層には数多くの死人が打ち捨てられていたそうです。そんな暗闇の中、火をともし、死人の髪をむしり取る老婆がいました。連子窓からその様子をのぞき見た盗人が刀を抜いて走り寄る……。芥川は、「盗人」を「下人」とすることでストーリー性を持たせ、また、きめ細やかな心理描写の変化を施すことで名作を生み出しました。

1.巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」(池辺義象編『今昔物語 下 古今著聞集』一九一五 博文館)

 【本文】

 今は昔、攝津の國邊より盜せむが爲に京に上ける男の、日の未だ暮ざりければ、羅城門の下に立隱れて立てりけるに、朱雀の方に人重り行ければ、人の靜まるまでと思て門の下に待立てけるに、山城の方より人共の數來たる音のしければ、其れに不見えじと思て、門の上層に和ら搔つき登たりけるに、見れば火髴に燃したり、

 盜人恠と思て連子より臨ければ、若き女の死て臥たる有り、其の枕上に火を燃して、年極く老たる嫗の白髮白きが、其の死人の枕上に居て、死人の髮をかなぐり拔き取る也けり、

 盜人此れを見るに心も不得ねば、此れは若し鬼にや有らむと思て、怖けれども若し死人にてもぞ有る、恐して試むとて思て、和ら戶を開て刀を拔て、己はと云て走寄ければ、嫗手迷ひをして手を摺て迷へば、盜人此は何ぞの嫗の此はし居たるぞと問ければ、嫗「己が主にて御ましつる人の、失給へるを繚ふ人の無ければ、此て置奉たる也、其の御髮の長に餘て長ければ、其を拔取て鬘にせむとて拔く也、助け給へ」と云ければ、盜人死人の著たる衣と嫗の著たる衣と拔取てある髮とを奪取て、

 下走て迯て去にけり、然て其の上の層には死人の骸ぞ多かりける、死たる人の葬など否不爲をば此の門の上にぞ置ける、此の事は其の盜人の人に語けるを聞繼て、此く語り傳へたるとや。

【現代語訳】

 今は昔、摂津国の辺りから盗みを働こうと京に上ってきた男が、日がまだ明るかったので、羅城門の下の物陰に身を隠していた。朱雀大路のほうの人の行き来が激しかったので、人通りが静まるまでと思い、門の下で待ち、立っていたのである。すると、山城のほうから大勢の人がやってくる音がしたため、それに見られまいと門の上層にそっとよじ登った。見れば、火がぼんやりとともっている。

 盗人は、「妙だ」と思って、連子窓からのぞいてみると、若い女が死んで横たわっている。その枕元に火をともして、ひどく年老いた白髪の老婆が、そこに座って、死人の髪を手荒くむしり取っているのだった。

 盗人はこれを見てわけが分からず、「これはもしかすると鬼ではないか」と思ってぞっとしたが、「ひょっとすると死人の霊かもしれない。脅して試してみよう」と思って、そっと戸を開けて、刀を抜き、
「貴様は、貴様は」
と言って走り寄ると、老婆は慌てふためき、手をすり合わせてうろたえた。盗人が、
「お前はどこの老婆で、何をしているのだ」
と問うと、老婆は、
「私の主人でいらっしゃる人がお亡くなりになったのですが、弔いをしてくれる人がいないため、このように置き申し上げたのです。その御髪(おぐし)が背丈に余るほど長いので、それを抜き取って鬘(かつら)にしようと思い、抜いているのです。お助けくだされ」
と言う。盗人は、死人の着ていた衣服と、老婆の着物、それに抜き取ってあった髪の毛までを奪い取って、下の階に降り、走って逃げ去った。

 そういう次第で、羅城門の上層には死人の骸骨が多かった。弔いなどができない死人を、この門の上に置いていたのである。
 このことは、その盗人が人に語ったのを聞き継いで、こう語り伝えているということだ。

 

2.巻三十一第三十一「太刀帯陣売魚嫗語」(池辺義象編『今昔物語 下 古今著聞集』一九一五 博文館)

 【本文】

 今は昔、三條の院の天皇の春宮にて御ましける時に、太刀帶の陣に常に來て魚賣る(イるナシ)女有けり、太刀帶共此れを買ひ(せイ)て食ふ(イふナシ)に、味ひ(イひナシ)の美かりければ、此れを役と持成して菜料に好み(イみナシ)けり、干たる魚の切々なるにて(イてナシ)なむ有ける、

 而る間八月許に、太刀帶共小鷹狩に北野に出で遊びけるに、此の魚賣の女出來たり、太刀帶共女の顏を見知たれば、此奴は野には何態爲るにか有らむと、馳て思寄て見れば、女大きやかなる籮を持たり、亦楚一筋を捧て持たり、此の女太刀帶共を見て、恠く迯目を仕ひて、只騷ぎに騷ぐ、太刀帶の從者共寄て、女の持たる籮には何の入たるぞと見むと爲るに、女惜むで不見せぬを、恠がりて引奪て見れば、虵を四寸許に切つゝ入たり、奇異く思て、此は何の料ぞと問へども、女更に答ふる事無くて  て(イてナシ)立てり、

 早う此奴のしける樣は、楚を以て藪を驚かしつゝ、這出る虵を打殺して切つゝ、家に持行て鹽を付て干て賣ける也けり、太刀帶共其れを不知ずして、買ひ(せイ)て役と食ける也けり、此れを思ふに、虵は食つる人惡と云ふに何と虵の不毒ぬ(りイ)、然れば其の體慥に無くて切々ならむ魚賣らむは、廣量に買て食はむ事は可止しとなむ、此れを聞く人云繚けるとなむ、語り傳へたるとや。

【現代語訳】

 今は昔、三条天皇が皇太子でいらっしゃる時に、太刀帯(たちはき・皇太子を護衛する役職)の詰め所にいつも訪れて、魚を売る女がいました。
太刀帯たちが、女の売っていた魚を買って食べると、味が美味しかったので、唯一のご馳走としてご飯のおかずに好んでいました。
干している魚を切れ切れにしてあるものです。

 さて、八月に、太刀帯たちが、小鷹狩に北野に来て遊んでいると、例の魚売りの女が出て来ました。太刀帯たちは、女の顔を見知っていたので、「あいつは野で何をしているのだろう」と思って、走り寄って見ると、女は、大きな籮(したみ・ザル)を持っています。それから、楚(ずばえ・ムチ)を持っています。この女は、太刀帯たちを見て、異常に逃げようとする目つきをいたして、ひたすら騒ぎに騒ぎます。太刀帯の従者たちが寄って、「女の持っている籮には何が入っているんだ」と見ようとすると、女が嫌がって見せないのでおかしいと思って、ひったくって見ると、蛇が四寸(およそ12cm)ごとに切って入っています。奇妙に思って、「これはなんのためだ」と問いましたが、女は、全く答えることをせず、□□て立っています。

 素早く、この女がしたのは、籮を持って藪を驚かせながら、這い出る蛇を打ち殺して切って家に持って行き、塩をつけて干して売っていたのです。太刀帯たちは、それを知らないで買っていて、御馳走として食べておりました。これを思うに、「蛇は食べてしまった人は具合が悪くなる」と言うのに、なんと蛇に毒されなかったのです。そうだから、「その正体がたしかでなくて、切れ切れになっただろう魚をうっているとしたら、細かいことにこだわらず買って食べるような事はやめるべきだ」と、これを聞いた人は、なんとも言えない話だとして語り伝えていると言うことです。

 


 


 


 


■当時の芥川の抱えていた意識と心情―芥川の書簡より

「ある女性への思いについて、自他のエゴイズムについて、世の中のことについて」当時の芥川は様々な思いに悩まされながら生きていました。
そんな感情に振り回されながら書き上げた不朽の名作が『羅生門』だったのかもしれませんね。

1.一九一五(大正四)年二月二十八日 井川恭宛書簡(『芥川龍之介全集 第十七巻』一九九七 岩波書店)

 ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた それからその女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかつた その内にそれらの事が少しづゝ知れて来た 最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた

 僕は求婚しやうと思つた そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした 所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に時が遅れてそれは出来なかつた しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は与へられた

 家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

 あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云つた それから不愉快な気まづい日が何日もつゞいた 其中に僕は一度女の所へ手紙を書いた 返事は来なかつた(中略)

 空虚な心の一角を抱いてそこから帰つて来た それから学校も少しやすんだ よみかけたイヷンイリイツチもよまなかつた それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた 大へんにさびしかつた

 

2.一九一五(大正四)年三月九日 井川恭宛書簡(『芥川龍之介全集 第十七巻』一九九七 岩波書店)

 イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出来ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

 周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ

 僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

 僕はどうすればいゝのだかわからない

 君はおちついて画をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を浅墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ回避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周囲と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ予感をもちながらも此ものの声に耳をかたむけずにはゐられない

 

3.一九一五(大正四)年三月十二日 井川恭宛書簡(『芥川龍之介全集 第十七巻』一九九七 岩波書店)

 僕は愛の形をしてhungerを恐れた それから結婚の云ふ事に至るまでの間(可成長い 少くとも三年はある)の相互の精神的肉体的の変化を恐れた 最後に最卑むべき射倖心として更に僕の愛を動かす事の多い物の来る事を恐れた しかし時は僕にこの三つの杞憂を破つてくれた 僕は大体に於て常にジンリツヒなる何物をも含まない愛を抱く事が出来るやうになつた 僕はひとりで朝眼をさました時にノスタルジアのやうなかなしさを以て人を思つた事を忘れない そして何人にも知らるゝ事のない何人にもよまるゝ事のない手紙をかいてひとりでよんでひとりでやぶつたの事も忘れない

 僕は今静に周囲と自分とをながめてゐる 外面的な事件は何事もなく平穏に完つてしまつた 僕とその人とは恐らく永久に行路の人となるのであらう 機会がさうでないやうにするとしても僕は出来得る限りさうする事につとめる事であらう 唯恐れるのは或一つの機会である しかしそれは唯運命に任せるより外はない

 僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな気がする しかし不幸にしてその新しい国には醜い物ばかりであつた

 僕はその醜い物を祝福する その醜さの故に僕は僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる美しい物を更によく知る事が出来たからである しかも又僕の持つてゐる そして人の持つてゐる醜い物を更にまたよく知る事が出来たからである 僕はありのまゝに大きくなりたい ありのまゝに強くなりたい 僕を苦しませるヴアニチーと性慾とイゴイズムとを僕のヂヤスチファイし得べきものに向上させたい そして愛する事によつて愛せらるゝ事なくとも生存苦をなぐさめたい

 


コメント

タイトルとURLをコピーしました