松尾芭蕉『おくのほそ道』の本文と現代語訳・品詞分解~大学入試や授業の予習のために~

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古典ノート

 『おくのほそ道』は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名な作品である。
出典:Wikipedia

 松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出たのは1689年(元禄2年)3月のこと。江戸・深川を出て東北、北陸を経て岐阜県・大垣へと至る約600里(2400㎞)の長旅の中でも、東北が格別に重要な地だったことが、滞在日数や詠んだ句の多さからもうかがえます。


 芭蕉は福島県に12泊、宮城県に10泊、岩手県に2泊、山形県に40泊、秋田県に2泊しており、東北にまつわる句は35句を『おくのほそ道』に収めています。また、東北の玄関口であった福島県・白河関では”旅心定りぬ(旅をする決心がついた)”と、ここが本当の旅の起点であることが記されており、いかに芭蕉にとって東北=みちのくへの旅が大きなものだったかが分かります。
出典:おくのほそ道・みちのくの歴史

大学入学共通テストでは、平安期の作品以外にも出題が予想されていますので、有名作品を押さえておくことは一つの対策になります。ぜひ内容を覚えておきましょう。

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旅立ち

本文と現代語訳

月日は百代の過客にして、   行きかふ年もまた旅人なり。
月日は永遠に歩みをやめない旅人であって、来ては去り去っては来る年もまた旅人である。

舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、
舟の上で一生を過ごす船頭や、 馬の轡を取って老年を迎える馬子は、毎日が旅であって、

旅を栖とす。     古人も多く旅に死せるあり。
旅を自分の住む家にしている。風雅の道のいにしえの人にも大勢旅の途中で亡くなった人がいる。

予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、
私も、いつの年からか、ちぎれ雲が風に誘われて漂うように、

漂泊の思ひやまず、
旅に出てさまよい歩きたいという気持ちが(雲を見、風に吹かれるにつけても)絶えることなく、

海浜にさすらへ、    去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の
(先年も)海岸をさまよい歩き、昨年の秋に、 隅田川のほとりのあばら屋に(戻って)蜘蛛の

古巣を払ひて、    やや年も暮れ、春立てる霞の空に、
古巣を払って(住むうちに)、やがて年も暮れ、 立春となって空に霞が立つのを見るにつけ、

白河の関越えんと、そぞろ神の 
白河の関を越えたいと、 人を誘って落ち着きをなくさせるそぞろ神が

ものにつきて心を狂はせ、     道祖神の招きにあひて
見るもの聞くものにとりついて私の心を狂わせ、街道のちまたにいる道祖神の招きを受けるようで

取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒つけかへて、
何も手につかなくなり、  ももひきの破れを縫い合わせ、  笠のひもをつけかえて、

三里に灸据うるより、  松島の月まづ心にかかりて、
脚の三里に灸を据えるやいなや、松島の月が(さぞすばらしいだろうと)まず気になって、

住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
住んでいた家は人に譲り、 杉風の別宅に移るときに、(次の句を作った。)

  草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
私がわび住まいをしていたこの草庵も、住人が替わるときが来たよ。まもなく雛祭りの折には、雛人形も飾られて、華やかに明るくなることだろう。

表八句を庵の柱に掛けおく。
(これを発句とした連句の)表八句を庵の柱に掛けておいた。

 弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて
三月も下旬の二十七日、夜明けの空はおぼろに霞んで、 月は有明の月であって

光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、
光が薄れてしまっているので、 富士山がかすかに見えて、上野や谷中の桜の花の咲く梢を、

またいつかはと心細し。     むつまじき限りは宵より集ひて、
またいつ見ることがあろうかと思うと心細い。親しい人々はみな宵から集まって、

舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、
舟に乗って私を送る。 千住という所で舟から上がると、

前途三千里の思ひ胸にふさがりて、
前途が三千里もある長旅に出るという感慨が胸にいっぱいになって、

幻のちまたに離別の涙をそそぐ。
幻のようにはかないこの世とは思いつつも、分かれ道に立って、別れの涙をこぼすのであった。

  行く春や鳥啼き魚の目は涙
今や三月の末、春も過ぎ去ろうとしているよ。その名残を惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目にも涙があふれているようだ。

これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。
この句を旅の記の書き始めとして、 歩み始めたが、道のりはいっこうにはかどらない。

人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、 見送るなるべし。
人々は途中に立ち並んで、わが後ろ姿が見える間はと思って、見送るのであろう。

 今年、元禄二年にや、奥羽長途の行脚、ただかりそめに思ひ立ちて、
今年は、元禄二年だとか、  奥羽地方への長旅を、 ただちょっと思いついて、

呉天に白髪の恨みを重ぬと
はるかに遠い異郷の空のもとで笠に積もった雪が白髪に変わるような嘆きを幾度もすると

いへども、    耳に触れていまだ目に見ぬ境、
わかっているのであるが、耳で聞いてまだこの目で見ていない土地(を見ることができて)、

もし生きて帰らばと、       定めなき頼みの末をかけ、
もし生きて江戸に帰るようなら(幸せだ)と、あてにならないわずかの期待を将来に託し、

その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかかれる物、
その日ようやく草加という宿場にたどり着いたことだったよ。やせた肩にかかっている品物で、

まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、
まず苦労する。 ただ身一つでと思って出発したのですが、紙子一枚は夜の寒さを防ぐ具、

ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、
浴衣・雨具・墨・筆の類、    あるいは断りきれない餞別の品などをくれたのは、

さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。
そうは言ってもやはり捨てにくくて、道中の苦しみの種となっているのはやむを得ないことだ。

本文

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

表八句を庵の柱に掛けおく。

 弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

  行く春や鳥啼き魚の目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。

 今年、元禄二年にや、奥羽長途の行脚、ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり。暈骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。

現代語訳

月日は永遠に歩みをやめない旅人であって、来ては去り去っては来る年もまた旅人である。舟の上で一生を過ごす船頭や、馬の轡を取って老年を迎える馬子は、毎日が旅であって、旅を自分の住む家にしている。風雅の道のいにしえの人にも大勢旅の途中で亡くなった人がいる。私も、いつの年からか、ちぎれ雲が風に誘われて漂うように、旅に出てさまよい歩きたいという気持ちが(雲を見、風に吹かれるにつけても)絶えることなく、(先年も)海岸をさまよい歩き、昨年の秋に、隅田川のほとりのあばら屋に(戻って)蜘蛛の古巣を払って(住むうちに)、やがて年も暮れ、立春となって空に霞が立つのを見るにつけ、白河の関を越えたいと、人を誘って落ち着きをなくさせるそぞろ神が見るもの聞くものにとりついて私の心を狂わせ、街道のちまたにいる道祖神の招きを受けるようで何も手につかなくなり、ももひきの破れを縫い合わせ、笠のひもをつけかえて、脚の三里に灸を据えるやいなや、松島の月が(さぞすばらしいだろうと)まず気になって、住んでいた家は人に譲り、杉風の別宅に移るときに、(次の句を作った。)

草の戸も・・・私がわび住まいをしていたこの草庵も、住人が替わるときが来たよ。まもなく雛祭りの折には、雛人形も飾られて、華やかに明るくなることだろう。

(これを発句とした連句の)表八句を庵の柱に掛けておいた。

三月も下旬の二十七日、夜明けの空はおぼろに霞んで、月は有明の月であって光が薄れてしまっているので、富士山がかすかに見えて、上野や谷中の桜の花の咲く梢を、またいつ見ることがあろうかと思うと心細い。親しい人人はみな宵から集まって、舟に乗って私を送る。千住という所で舟から上がると、前途が三千里もある長旅に出るという感慨が胸にいっぱいになって、幻のようにはかないこの世とは思いつつも、分かれ道に立って、別れの涙をこぼすのであった。

行く春や・・・今や三月の末、春も過ぎ去ろうとしているよ。その名残を惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目にも涙があふれているようだ。

この句を旅の記の書き始めとして、歩み始めたが、道のりはいっこうにはかどらない。人々は途中に立ち並んで、わが後ろ姿が見える間はと思って、見送るのであろう。

今年は、元禄二年だとか、奥羽地方への長旅を、ただちょっと思いついて、はるかに遠い異郷の空のもとで笠に積もった雪が白髪に変わるような嘆きを幾度もするとわかっているのであるが、耳で聞いてまだこの目で見ていない土地(を見ることができて)、もし生きて江戸に帰るようなら(幸せだ)と、あてにならないわずかの期待を将来に託し、その日ようやく草加という宿場にたどり着いたことだったよ。やせた肩にかかっている品物で、まず苦労する。ただ身一つでと思って出発したのですが、紙子一枚は夜の寒さを防ぐ具、浴衣・雨具・墨・筆の類、あるいは断りきれない餞別の品などをくれたのは、そうは言ってもやはり捨てにくくて、道中の苦しみの種となっているのはやむを得ないことだ。

品詞分解

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平泉

本文と現代語訳

三代の栄耀一睡のうちにして、
藤原氏三代の栄華も一眠りの短い間の夢であって(すでにすべて滅び去り)、

大門の跡は一里こなたにあり。 秀衡が跡は田野になりて、
平泉館の大門の跡は一里ほど手前にある。秀衡の住んだ館の跡は田や野原となって、

金鶏山のみ形を残す。        まづ高館に登れば、
(彼が築いた)金鶏山だけが当時の形を残している。まず(義経主従の館であった)高館に登ると、

北上川、            南部より流るる大河なり。
北上川(が眼下に見下ろされるが、これは)、南部地方から流れて来る大河である。

衣川は和泉が城を巡りて、      高館の下にて大河に落ち入る。
衣川は(忠衡の居城であった)和泉が城を巡って、高館の下で北上川に流れ込む。

泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、       えぞを
泰衡らの住んだ跡は、 衣が関を間に置いて南部地方からの出入り口をしっかりと固め、蝦夷を

防ぐと見えたり。さても、  義臣すぐつてこの城にこもり、
防ぐと見えている。  それにしても、(義経は)忠義の臣下を選び抜いてこの高館にこもり、

功名一時の草むらとなる。
(華々しく奮戦して)勇名(をはせたが、それも)一時の(夢と消え去って、今そのあたりは)夏草の生い茂る草原となっている。

「国破れて山河あり、
「国都は破壊されてしまったが、山河は以前と変わらずに存在している、

城春にして草青みたり。」と、
町には春が来て、草は青々と生い茂っている。」と(杜甫の「春望」の詩を)口ずさんで、

笠うち敷きて、   時の移るまで涙を落としはべりぬ。
笠を敷いて(腰を下ろし)、ずいぶん時間がたつまで懐旧の涙を流したことでした。

  夏草やつはものどもが夢の跡
高館に来てみると、夏草が青々と生い茂っているよ。ここは昔、義経主従らが功名を夢見て奮戦した所だ。

  卯の花に兼房見ゆる白毛かな                   曾良
白く咲く卯の花を見ていると、その昔ここ高館で主君義経のために白髪をふり乱して奮戦した老将兼房の姿が浮かんでくることよ。                  曾良

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。
以前から評判を聞いて驚いていた(中尊寺の経堂と光堂の)二堂が開かれている。

経堂は三将の像を残し、
経堂は(清衡・基衡・秀衡の藤原氏)三代の将軍たちの彫像を今に伝え、

光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
光堂は三代の棺を納め、(ほかに)阿弥陀如来三尊像を安置している。

七宝散り失せて、      珠の扉風に破れ、
ちりばめられていた七宝もなくなって、珠玉を飾った扉は風に破れ、

金の柱霜雪に朽ちて、   すでに發廃空虚の草むらとなるべきを、
金色の柱も霜や雪のために腐って、もう少しで崩れ朽ちて何もない草むらになるはずであったが、

四面新たに囲みて、          甍を覆ひて風雨をしのぐ。
(この光堂の)四面を新しく(盖堂を造って)囲って、瓦を葺いて風や雨を防いでいる。

しばらく千歳のかたみとはなれり。
(こうして)しばらくのことではあろうが、千年の昔をしのぶ記念となっている。

  五月雨の降り残してや光堂
毎年降り続けてきた五月雨も、この光堂には降るのを遠慮してきたのだろうか。燦然と輝いて昔の栄華をしのばせることだ。

 

本文

 三代の(えい)耀(えう)一睡のうちにして、(だい)(もん)の跡は一里こなたにあり。(ひで)(ひら)が跡は(でん)()になりて、(きん)(けい)(ざん)のみ形を残す。まづ(たか)(だち)に登れば、(きた)(かみ)(がは)南部より流るる大河なり。(ころも)(がは)和泉(いづみ)が城を巡りて、高館の(もと)にて大河に落ち入る。(やす)(ひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名(いち)()の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」と、笠打ち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

  夏草や(つはもの)どもが夢の跡

  ()の花に(かね)(ふさ)見ゆる(しら)()かな                                                                                 ()()

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。(きやう)(だう)は三将の像を残し、(ひかり)(だう)は三代の(ひつぎ)を納め、(さん)(ぞん)の仏を安置す。(しつ)(ぽう)散りうせて、(たま)の扉風に破れ、(こがね)の柱霜雪に朽ちて、すでに(たい)(はい)空虚の草むらとなるべきを、四面新たに囲みて、(いらか)を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく(せん)(ざい)記念(かたみ)とはなれり。

  五月雨(さみだれ)の降り残してや光堂

現代語訳

 (奥州藤原氏)三代の栄華もはかなく消え果ててしまい、大門の跡は一里ほど手前にある。秀衡の館の跡は田や野原となって、(彼が築いた)金鶏山だけが当時の形を残している。まず(義経が居所とした)高館に登ると、北上川(が見えるが、これ)は南部地方から流れてくる大河である。衣川は(忠衡の居所であった)和泉が城をめぐって、高館の下で大河(北上川)に流れ込む。泰衡らの住んだ跡は、衣が関を隔てて南部地方からの出入り口を固め、蝦夷を防ぐと見えている。それにしても(義経は)忠義の臣下を選りすぐってこの高館に立てこもり、武功(をたてたが、それ)も一時の(夢と消え去り)草むらとなっている。「国都は破壊されてしまったが、山河は昔に変わらず存在しており、町には春が訪れ、草は青々と茂っている。」と、(口ずさんで)笠を置いて(その傍らに腰を下ろし)、ずいぶん時間がたつまで(懐旧の)涙を流しました。

目の前に青々と夏草が茂っているよ。ここは昔、義経主従らが功名を夢見て奮戦した跡だ(が、今となってはむなしいことだ)。

真っ白に咲いている卯の花を見ていると、昔、義経を守るために白髪を振り乱して奮戦した兼房の姿がありありと目に浮かんでくることだ。                         曽良

 かねてから話に聞いて驚いている(経堂・光堂の)二堂が開帳されている。経堂は(清衡・基衡・秀衡の藤原氏)三代の将軍たちの像を残し、光堂は三代の棺を納め、(そのほかに)阿弥陀如来三尊像を安置している。(かつて柱などに散りばめられていた)七宝は散り失せて、珠玉を飾った扉は風で壊れ、黄金の柱は霜や雪で腐ってしまって、もう少しで崩れ落ちてむなしい草むらになるはずであったが、(光堂の)四方を新しく(鞘堂をつくって)囲って、屋根に瓦を葺いて風雨を防いでいる。(こうして)しばらくの間は千年の昔をしのぶ記念となっている。

毎年の五月雨も、この光堂にだけは降らなかったのだろうか。その名の通り、今なお光り輝いている光堂であるよ。

品詞分解

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立石寺

本文と現代語訳

山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、 
山形藩の領内に立石寺という山寺がある。 慈覚大師の開いた寺であって、

ことに清閑の地なり。   一見すべきよし、     
とりわけ清らかで静かな所である。一度見ておくのがよいということを、

人々の勧むるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。
人々が勧めるので、 尾花沢から引き返したが、   その間は七里ほどである。

日いまだ暮れず。      ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。
(着いたときは)日はまだ暮れていない。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山上の堂に登る。

岩に巌を重ねて山とし、 松柏年ふり、
岩の上に巌を積み重ねて山とし、松などの常緑樹は年数を経て老木となり、

土石老いて苔なめらかに、         岩上の院々扉を閉ぢて、
土や石も時代がついて古びて苔がなめらかに覆っており、岩の上の寺院はどれも扉を閉じて、

物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、     仏閣を拝し、
物音が聞こえない。 崖のふちを回り岩の上をはうようにして、仏堂に詣でたが、

佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。
すばらしい景色はものさびしく静まっていて自分の心が澄みきってゆくことだけが感じられる。

  閑かさや岩にしみ入る欟の声
夕暮れの立石寺のひっそりとした静かさよ。欟の声までも重なっている岩にしみ入ってゆくように思われる。

 

本文

 山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

  閑かさや岩にしみ入る欟の声

現代語訳

 山形藩の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開いた寺であって、とりわけ清らかで静かな所である。一度見ておくのがよいということを、人々が勧めるので、尾花沢から引き返したが、その間は七里ほどである。(着いたときは)日はまだ暮れていない。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山上の堂に登る。岩の上に巌を積み重ねて山とし、松などの常緑樹は年数を経て老木となり、土や石も時代がついて古びて苔がなめらかに覆っており、岩の上の寺院はどれも扉を閉じて、物音が聞こえない。崖のふちを回り岩の上をはうようにして、仏堂に詣でたが、すばらしい景色はものさびしく静まっていて自分の心が澄みきってゆくことだけが感じられる。

閑かさや・・・夕暮れの立石寺のひっそりとした静かさよ。欟の声までも重なっている岩にしみ入ってゆくように思われる。

品詞分解

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