漢文『鴻門之会』の白文・書き下し文・現代語訳〜大学受験から授業の予習まで〜予想問題付き

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項羽、大いに怒る(本文)

 楚 軍 行 略 定 秦 地 至 函 谷 関 有 兵 守 関 不 得 入 又 聞 沛 公 已 破 咸 陽 項 羽 大 怒 使 当 陽 君 等 撃 関 項 羽 遂 入 至 于 戯 西

 沛 公 軍 覇 上 未 得 与 項 羽 相 見 沛 公 左 司 馬 曹 無 傷 使 人 言 於 項 羽 曰 沛 公 欲 王 関 中 使 子 嬰 為 相 珍 宝 尽 有 之 項 羽 大 怒 曰 旦 日 癘 士 卒 為 撃 破 沛 公 軍

 当 是 時 項 羽 兵 四 十 万 在 新 豊 鴻 門 沛 公 兵 十 万 在 覇 上 范 増 説 項 羽 曰 沛 公 居 山 東 時 貪 於 財 貨 好 美 姫 今 入 関 財 物 無 所 取 婦 女 無 所 幸 此 其 志 不 在 小 吾 令 人 望 其 気 皆 為 竜 虎 成 五 采 此 天 子 気 也 急 撃 勿 失

書き下し文

()(ぐん) (ゆくゆく)(しん)()(りやく)(てい)し、(かん)(こく)(くわん)(いた)る。(へい)()(くわん)(まも)り、()るを()ず。(また) (はい)(こう) (すで)(かん)(やう)(やぶ)ると()き、(かう)() (おほ)いに(いか)り、(たう)(やう)(くん)()をして(くわん)()たしむ。(かう)() (つひ)()りて、()西(せい)(いた)る。

 (はい)(こう) ()(じやう)(ぐん)し、(いま)(かう)()(あひ)(まみ)ゆるを()ず。(はい)(こう)()()()(さう)()(しやう) (ひと)をして(かう)()()はしめて()はく、「(はい)(こう) (くわん)(ちゆう)(わう)たらんと(ほつ)し、()(えい)をして(しやう)たらしめ、(ちん)(ぽう) (ことごと)(これ)(いう)す。」と。(かう)() (おほ)いに(いか)りて()はく、「(たん)(じつ) ()(そつ)(きやう)せよ。(はい)(こう)(ぐん)(げき)()することを()さん。」と。

 ()(とき)()たり、(かう)()(へい)(よん)(じふ)(まん)(しん)(ぽう)(こう)(もん)()り。(はい)(こう)(へい)(じふ)(まん)()(じやう)()り。(はん)(ぞう) (かう)()()きて()はく、「(はい)(こう) (さん)(とう)()りし(とき)(ざい)(くわ)(むさぼ)り、()()(この)めり。(いま) (くわん)()りて、(ざい)(ぶつ) ()(ところ)()く、()(ぢよ) (かう)する(ところ)()し。()()(こころざし) (せう)()らず。(われ) (ひと)をして()()(のぞ)ましむるに、(みな) (りゆう)()()し、()(さい)()す。()(てん)()()なり。(いそ)()ち、(しつ)すること()かれ。」と。

 

現代語訳

 楚軍は道すがら秦の地を攻め下して、函谷関に到着した。ところが軍兵が関所を守っていて、(関中の地に)入ることができなかった。さらにまた、沛公がすでに咸陽を攻め破ったと聞いて、項羽は大いに怒り、当陽君らに関所を攻撃させた。項羽はかくして(関中の地に)入って、戯西に到着した。

 沛公は覇上に陣をはり、まだ項羽と面会する機会が得られなかった。沛公の左司馬の曹無傷が、人を遣わして項羽に次のように言わせた、「沛公は関中の地で王となろうとして、(降伏した秦の皇帝)子嬰を(自分の家来にして)大臣とし、(秦の所有していた)珍宝はすべて自分のものとした。」と。項羽は(それを聞いて)大いに怒って言った、「明朝、兵士たちにごちそうをふるまうように。(士気を盛んにして)沛公の軍を撃破するのだ。」と。

 このとき、項羽の兵は四十万で、新豊の鴻門に陣していた。沛公の兵は十万で、覇上に陣していた。范増が項羽に説いて言うには、「沛公は山東にいたときは、財物を欲張り、美女を好みました。(しかし)今、関中に入ってからは、財物は自分のものとしないし、婦女も寵愛しません。これは、その志が小さいところにない(天下統一の大きな志がある)ことを示しています。私が(天文気象を見る専門家の)人に彼の上に立ちのぼる気を見させたところ、それは皆、竜や虎の形をし、五色のあやをなしているとのことです。これは天子となる者の気です。(このままにしておくと彼は天下を統一して天子となるでしょう。)急ぎ攻撃し、決して取り逃がしてはなりませぬ。」と。

 


 


 


剣の舞

 沛 公 旦 日 従 百 余 騎 来 見 項 王 至 鴻 門 謝 曰 臣 与 将 軍 勠 力 而 攻 秦 将 軍 戦 河 北 臣 戦 河 南 然 不 自 意 能 先 入 関 破 秦 得 復 見 将 軍 於 此 今 者 有 小 人 之 言 令 将 軍 与 臣 有 郤 項 王 曰 此 沛 公 左 司 馬 曹 無 傷 言 之 不 然 籍 何 以 至 此

 項 王 即 日 因 留 沛 公 与 飲 項 王 項 伯 東 匕 坐 亜 父 南 匕 坐 亜 父 者 范 増 也 沛 公 北 匕 坐 張 良 西 匕 侍 范 増 数 目 項 王 挙 所 佩 玉 彗 以 示 之 者 三 項 王 黙 然 不 応

 范 増 起 出 召 項 荘 謂 曰 君 王 為 人 不 忍 若 入 前 為 寿 寿 畢 請 以 剣 舞 因 撃 沛 公 於 坐 殺 之 不 者 若 属 皆 且 為 所 虜 荘 則 入 為 寿 寿 畢 曰 君 王 与 沛 公 飲 軍 中 無 以 為 楽 請 以 剣 舞 項 王 曰 諾 項 荘 抜 剣 起 舞 項 伯 亦 抜 剣 起 舞 常 以 身 翼 呷 沛 公 荘 不 得 撃

書き下し文

(はい)(こう) (たん)(じつ) (ひやく)()()(したが)へ、()たりて(かう)(わう)(まみ)えんとす。(こう)(もん)(いた)り、(しや)して()はく、「(しん) (しやう)(ぐん)(ちから)()はせて(しん)()む。(しやう)(ぐん)()(ほく)(たたか)ひ、(しん)()(なん)(たたか)ふ。(しか)れども(みづか)(おも)はざりき、()()(くわん)()りて(しん)(やぶ)り、()(しやう)(ぐん)(ここ)(まみ)ゆることを()んとは。()() (せう)(じん)(げん)()り、(しやう)(ぐん)をして(しん)(げき)()らしむ。」と。(かう)(わう)()はく、「()(はい)(こう)()()()(さう)()(しやう) (これ)()ふ。(しか)らずんば、(せき) (なに)()つて(ここ)(いた)らん。」と。

 (かう)(わう) (そく)(じつ)()りて(はい)(こう)(とど)めて(とも)()む。(かう)(わう)(かう)(はく)(とう)(きやう)して()し、()()(なん)(きやう)して()す。()()とは(はん)(ぞう)なり。(はい)(こう)(ほく)(きやう)して()し、(ちやう)(りやう)西(せい)(きやう)して()す。(はん)(ぞう) (しばしば) (かう)(わう)にし、()ぶる(ところ)(ぎよく)(けつ)()げて、()つて(これ)(しめ)(こと)()たびす。(かう)(わう) (もく)(ぜん)として(おう)ぜず。

 (はん)(ぞう) ()ち、()でて(かう)(さう)()し、()ひて()はく、「(くん)(わう) (ひと)()(しの)びず。(なんぢ)()り、(すす)みて寿(じゆ)()せ。寿(じゆ) ()はらば、()ひて(けん)()つて()ひ、()りて(はい)(こう)()()ちて(これ)(ころ)せ。不者(しから)ずんば、(なんぢ)(ぞく)(みな) (まさ)(とりこ)とする(ところ)()らんとす。」と。(さう) (すなは)()りて寿(じゆ)()す。寿(じゆ) ()はりて()はく、「(くん)(わう) (はい)(こう)()む。(ぐん)(ちゆう)()つて(がく)()()し。()ふ (けん)()つて()はん。」と。(かう)(わう)()はく、「(だく)。」と。(かう)(さう) (けん)()()ちて()ふ。(かう)(はく)(また) (けん)()()ちて()ひ、(つね)()()つて(はい)(こう)(よく)(へい)す。(さう) ()つを()ず。

現代語訳

沛公は明朝早く百騎ばかりの兵を連れて、項王にお目にかかろうとやって来た。鴻門に到着し、わびて言うには、「私は将軍と力を合わせて秦を攻めてきました。将軍は河北の地で戦い、私は河南の地で戦いました。しかしながら、私のほうが将軍より先に関に入って秦を破ることができ、また将軍とここでお会いできようとは、私自身、思いもよらぬことでした。ところで今、取るに足らぬ者の告げ口があり、将軍に、私との間を仲たがいさせようとしております。」と。項王が言うには、「それは、あなたの左司馬の曹無傷が言ったのだ。そうでなければ、私がどうしてこういうことになろうか、いや、ならなかったはずだ。」と。

 項王は、その日すぐに、疑いが解けたことで沛公をとどめていっしょに酒宴を開いた。項王と項伯とは東向きに座り、亜父は南向きに座った。亜父とは范増のことである。沛公は北向きに座り、張良は西向きにひかえた。范増はしばしば項王に目くばせし、腰におびている玉彗を挙げて、何度も項王に示し(決断を促し)た。しかし項王は黙然として反応を示さなかった。

 そこで范増は立ち上がり、その場を出て項荘を召し出し、告げて言うには、「わが君は、情け深く同情心の強いお人柄だ。おまえは中に入り、進み出て長寿のお祝いをせよ。それが終わったならば、お願いして剣を持って舞い、折を見て沛公をその場でうち殺せ。そうしなければ、おまえの身内の者は皆、沛公の捕虜にされてしまうだろう。」と。そこで項荘は中に入って長寿のお祝いをした。それが終わって言った、「わが君は沛公と宴を開いておられますが、軍中には何の音楽もございません。お許しを得て、私が剣舞をいたしましょう。」と。項王は、「よろしい。」と承知した。項荘は剣を抜いて立ち上がって舞い始めた。項伯もまた剣を抜いて立ち上がって舞い始め、常に身をもって沛公をかばった。項荘は沛公をうつことができなかった。

 

樊匍、頭髪 上指す

 於 是 張 良 至 軍 門 見 樊 匍 樊 匍 曰 今 日 之 事 何 如 良 曰 甚 急 今 者 項 荘 抜 剣 舞 其 意 常 在 沛 公 也 匍 曰 此 迫 矣 臣 請 入 与 之 同 命 匍 即 帯 剣 擁 盾 入 軍 門 交 戟 之 衛 士 欲 止 不 内 樊 匍 側 其 盾 以 撞 衛 士 仆 地

 匍 遂 入 披 帷 西 匕 立 瞋 目 視 項 王 頭 髪 上 指 目 眦 尽 裂 項 王 按 剣 而 潦 曰 客 何 為 者 張 良 曰 沛 公 之 参 乗 樊 匍 者 也 項 王 曰 壮 士 賜 之 卮 酒 則 与 斗 卮 酒 匍 拝 謝 起 立 而 飲 之 項 王 曰 賜 之 實 肩 則 与 一 生 實 肩 樊 匍 覆 其 盾 於 地 加 實 肩 上 抜 剣 切 而 啗 之

 項 王 曰 壮 士 能 復 飲 乎 樊 匍 曰 臣 死 且 不 避 卮 酒 安 足 辞 夫 秦 王 有 虎 狼 之 心 殺 人 如 不 能 挙 刑 人 如 恐 不 勝 天 下 皆 兮 之 懐 王 与 諸 将 約 曰 先 破 秦 入 咸 陽 者 王 之 今 沛 公 先 破 秦 入 咸 陽 毫 毛 不 敢 有 所 近 封 閉 宮 室 還 軍 覇 上 以 待 大 王 来 故 遣 将 守 関 者 備 他 盗 出 入 与 非 常 也 労 苦 而 功 高 如 此 未 有 封 侯 之 賞 而 聴 細 説 欲 誅 有 功 之 人 此 亡 秦 之 続 耳 窃 為 大 王 不 取 也 項 王 未 有 以 応 曰 坐 樊 匍 従 良 坐 坐 須 臾 沛 公 起 如 厠 因 招 樊 匍 出

書き下し文

 (ここ)()いて(ちやう)(りやう) (ぐん)(もん)(いた)り、(はん)(くわい)()る。(はん)(くわい)()はく、「(こん)(にち)(こと) 何如(いかん)。」と。(りやう)()はく、「(はなは)(きふ)なり。今者(いま) (かう)(さう) (けん)()きて()ふ。()() (つね)(はい)(こう)()るなり。」と。(くわい)()はく、「()(せま)れり。(しん) ()ふ、()りて(これ)(めい)(おな)じくせん。」と。(くわい) (すなは)(けん)()(たて)(よう)して(ぐん)(もん)()る。(かう)(げき)(ゑい)()(とど)めて()れざらんと(ほつ)す。(はん)(くわい) ()(たて)(そばだ)てて、()つて(ゑい)()()きて()(たふ)す。

 (くわい) (つひ)()り、()(ひら)きて西(せい)(きやう)して()ち、()(いか)らして(かう)(わう)()る。(とう)(はつ) (じやう)()し、(もく)() (ことごと)()く。(かう)(わう) (けん)(あん)じて(ひざまづ)きて()はく、「(かく) (なん)()(もの)ぞ。」と。(ちやう)(りやう)()はく、「(はい)(こう)(さん)(じやう)(はん)(くわい)といふ(もの)なり。」と。(かう)(わう)()はく、「(さう)()なり。(これ)()(しゆ)(たま)へ。」と。(すなは)()()(しゅ)(あた)ふ。(くわい) (はい)(しや)して()ち、()ちながらにして(これ)()む。(かう)(わう)()はく、「(これ)(てい)(けん)(たま)へ。」と。(すなは)(いち)(せい)(てい)(けん)(あた)ふ。(はん)(くわい) ()(たて)()()せ、(てい)(けん)(うへ)(くは)へ、(けん)()き、()りて(これ)(くら)ふ。

 (かう)(わう)()はく、「(さう)()なり。()()()むか。」と。(はん)(くわい)()はく、「(しん) ()すら()()けず。()(しゆ) (いづ)くんぞ()するに()らんや。()れ (しん)(わう) ()(らう)(こころ)()り。(ひと)(ころ)すこと()ぐる(あた)はざるがごとく、(ひと)(けい)すること()へざるを(おそ)るるがごとし。(てん)() (みな) (これ)(そむ)く。(くわい)(わう) (しよ)(しやう)(やく)して()はく、『(さき)(しん)(やぶ)りて(かん)(やう)()(もの)(これ)(わう)とせん。』と。(いま)(はい)(こう) (さき)(しん)(やぶ)りて(かん)(やう)()る。(がう)(まう)()へて(ちか)づくる(ところ)()らず。(きう)(しつ)(ふう)(へい)し、(かへ)りて()(じやう)(ぐん)し、()つて(だい)(わう)()たるを()てり。(ことさ)らに(しやう)(つか)はし(くわん)(まも)らしめしは、()(たう)(しゆつ)(にふ)()(じやう)とに(そな)へしなり。(らう)()して(こう)(たか)きこと()くのごときに、(いま)(ほう)(こう)(しやう)()らず。(しか)(さい)(せつ)()きて、(いう)(こう)(ひと)(ちゆう)せんと(ほつ)す。()(ばう)(しん)(つづ)きなるのみ。(ひそ)かに(だい)(わう)(ため)()らざるなり。」と。(かう)(わう) (いま)()つて(こた)ふる()らず。()はく、「()せよ。」と。(はん)(くわい) (りやう)(したが)ひて()す。()すること(しゆ)()にして、(はい)(こう)()ちて(かはや)()き、()りて(はん)(くわい)(まね)きて()づ。

現代語訳

そこで張良は陣営の門まで行き、(そこに待っていた)樊匍に会った。(張良の言を待たずに)樊匍が、「今日の会談の様子はどうですか。」と尋ねた。張良は、「緊急事態だ。今、項荘が剣を抜いて舞っている。項荘の意は常に沛公を殺すことにある。」と言った。樊匍は、「それは大変だ。私は(会談の場に)入って、わが君と生死をともにしたい。」と言った。樊匍はすぐに剣を腰につけ盾をかかえて陣営の門に押し入った。を左右から十文字に交えている番兵は、それをとどめて中に入れまいとした。樊匍は、持っていた盾を斜めに立てて構えて、それで番兵をついて地に倒した。

 樊匍はそのまま中に入り、とばりを巻き上げて西に向かって立ち、目をカッとむいて項王をにらみつけた。髪の毛は逆立ち、まなじりはことごとく裂けていた。項王は剣のつかに手をかけ、ひざをついて身構えて言った、「おまえは何者だ。」と。張良が、「沛公の参乗の樊匍という者です。」と答えた。項王は、「壮士だ。この男に大杯の酒をくれてやれ。」と言った。そこで(従者が)一斗入りの大杯を与えた。樊匍は拝謝して立ち上がり、立ったままそれを飲みほした。項王が、「この男に豚の肩肉をくれてやれ。」と言った。そこで(従者が)一きれのの豚の肩肉を与えた。樊匍は自分の盾を地に伏せて置き、その上に豚の肩肉を置いて、剣を抜き、切ってそれを食べた。

 項王が、「壮士だ。まだ酒を飲めるか。」と尋ねると、樊匍は答えた、「私は死ぬことさえも避けませぬ。大杯の酒など、どうして断るに足るでしょうか、いや、断るに足りません。そもそも秦の始皇帝は、虎や狼のような残忍な心を持っていた。人を殺すのは、あまり多くて数えきれないほどであり、人を刑するのは、あまり多くて、し残しがないかと心配するほどであった。(そのために)天下の人々は皆、始皇帝に背いた。懐王は諸将と約束して、『真っ先に秦を破って咸陽に入った者は、その地の王にする。』と言われた。いま沛公は、真っ先に秦を破って咸陽に入った。そしてほんのわずかなものも自分のものにしようとはしなかった。秦の宮室には封印をして、引き返して覇上に陣をしき、大王の来られるのを待った。わざわざ将を派遣して函谷関を守らせたのは、他からの盗賊の出入りと、非常事態とに備えたからです。苦労してこのように大きな手柄を立てたのに、まだ諸侯に封ずるとの賞はない。それどころか、つまらぬ者の言うことを信じて、有功の人を殺そうとされる。これでは滅亡した秦と同じことです。はばかりながら、私は、大王のなさり方には賛成しかねます。」と。項王は返答できなかった。(ただ)「座れ。」と言った。樊匍は張良のそばに座った。座ってしばらくして、沛公は立ち上がって便所に行き、そのついでに樊匍を呼んで出ていった。

 

沛(はい)公(こう)、虎(こ)口(こう)を脱(だつ)す

 沛 公 已 出 項 王 使 都 尉 陳 平 召 沛 公 沛 公 曰 今 者 出 未 辞 也 為 之 奈 何 樊 匍 曰 大 行 不 顧 細 謹 大 礼 不 辞 小 譲 如 今 人 方 為 刀 俎 我 為 魚 肉 何 辞 為 於 是 遂 去

 乃 令 張 良 留 謝 良 問 曰 大 王 来 何 操 曰 我 持 白 璧 一 双 欲 献 項 王 玉 斗 一 双 欲 与 亜 父 会 其 怒 不 敢 献 公 為 我 献 之 張 良 曰 謹 諾

 当 是 時 項 王 軍 在 鴻 門 下 沛 公 軍 在 覇 上 相 去 四 十 里 沛 公 則 置 車 騎 脱 身 独 騎 与 樊 匍 夏 侯 嬰 盂 彊 紀 信 等 四 人 持 剣 盾 歩 走 従 驪 山 下 道 吮 陽 間 行 沛 公 謂 張 良 曰 従 此 道 至 吾 軍 不 過 二 十 里 耳 度 我 至 軍 中 公 乃 入

 沛 公 已 去 間 至 軍 中 張 良 入 謝 曰 沛 公 不 勝 廚 廝 不 能 辞 謹 使 臣 良 奉 白 璧 一 双 再 拝 献 大 王 足 下 玉 斗 一 双 再 拝 奉 大 将 軍 足 下 項 王 曰 沛 公 安 在 良 曰 聞 大 王 有 意 督 過 之 脱 身 独 去 已 至 軍 矣 項 王 則 受 璧 置 之 坐 上 亜 父 受 玉 斗 置 之 地 抜 剣 撞 而 破 之 曰 勍 豎 子 不 足 与 謀 奪 項 王 天 下 者 必 沛 公 也 吾 属 今 為 之 虜 矣 沛 公 至 軍 立 誅 殺 曹 無 傷

書き下し文

 (はい)(こう) (すで)()づ。(かう)(わう) ()()(ちん)(ぺい)をして(はい)(こう)()さしむ。(はい)(こう)()はく、「今者(いま)()づるに(いま)()せざるなり。(これ)()すこと奈何(いかん)。」と。(はん)(くわい)()はく、「(たい)(かう)(さい)(きん)(かへり)みず、(たい)(れい)(せう)(じやう)()せず。如今(いま)(ひと)(まさ)(たう)()たり、(われ)(ぎよ)(にく)たり。(なん)()することを()さん。」と。(ここ)()いて(つひ)()る。

 (すなは)(ちやう)(りやう)をして(とど)まり(しや)せしむ。(りやう) ()ひて()はく、「(だい)(わう) ()たるとき、(なに)をか()れる。」と。()はく、「(われ) (はく)(へき)(いつ)(さう)()し、(かう)(わう)(けん)ぜんと(ほつ)し、(ぎよく)()(いつ)(さう)をば、()()(あた)へんと(ほつ)せしも、()(いか)りに()ひて、()へて(けん)ぜず。(こう) ()(ため)(これ)(けん)ぜよ。」と。(ちやう)(りやう)()はく、「(つつし)みて(だく)す。」と。

 ()(とき)()たり、(かう)(わう)(ぐん)(こう)(もん)(もと)()り、(はい)(こう)(ぐん)()(じやう)()り、(あひ)()ること(よん)(じふ)()なり。(はい)(こう) (すなは)(しや)()()き、()(だつ)して(ひと)()し、(はん)(くわい)()(こう)(えい)(きん)(きやう)()(しん)()()(にん)(けん)(じゆん)()して()(そう)するものと、()(ざん)(もと)より、()(やう)(みち)して(かん)(かう)す。(はい)(こう) (ちやう)(りやう)()ひて()はく、「()(みち)より()(ぐん)(いた)る、()(じふ)()()ぎざるのみ。(われ)(ぐん)(ちゆう)(いた)るを(はか)り、(こう) (すなは)()れ。」と。

 (はい)(こう) (すで)()り、(しの)びて(ぐん)(ちゆう)(いた)る。(ちやう)(りやう) ()りて(しや)して()はく、「(はい)(こう) (はい)(しやく)()へず、()する(あた)はず。(つつし)みて(しん) (りやう)をして(はく)(へき)(いつ)(さう)(ほう)じ、(さい)(はい)して(だい)(さう)(そく)()(けん)じ、(ぎよく)()(いつ)(さう)をば、(さい)(はい)して(だい)(しやう)(ぐん)(そく)()(ほう)ぜしむ。」と。(かう)(わう)()はく、「(はい)(こう) (いづ)くにか()る。」と。(りやう)()はく、「(だい)(わう) (これ)(とく)(くわ)するに()()りと()き、()(だつ)して(ひと)()れり。(すで)(ぐん)(いた)らん。」と。(かう)(わう) (すなは)ち (へき)()け、(これ)()(じやう)()く。()() (ぎよく)()()け、(これ)()()き、(けん)()()きて(これ)(やぶ)りて()はく、「(ああ)(じゆ)()(とも)(はか)るに()らず。(かう)(わう)(てん)()(うば)(もの)は、(かなら)(はい)(こう)ならん。()(ぞく) (いま)(これ)(りよ)()らん。」と。(はい)(こう) (ぐん)(いた)り、()ちどころに(さう)()(しやう)(ちゆう)(さつ)す。

現代語訳

沛公は(会談の場を)出てしまった。(沛公が帰ってこないので)項王は都尉の陳平に沛公を呼びに行かせた。沛公は(樊匍に)言った、「いま、出てくるときに、別れのあいさつをしてこなかった。どうすればよかろう。」と。樊匍が言った、「大事を行うときには、ささいな慎みなど問題にしませんし、重大な礼を行うときには、小さな譲り合いなどは問題にしません。ちょうどいま、項王はまさしく包丁とまな板であり、私どもは魚や肉のようなものです。(このようなときに)どうして別れのあいさつをすることがあるでしょうか、いや、その必要は全くありません。」と。そこで、そのまま去ったのである。

 そこで張良に、その場にとどまっておわびをさせることにした。張良が沛公に尋ねて言った、「大王は、こちらへ来られるときに、何を(土産として)お持ちになりましたか。」と。(沛公が答えて)言うには、「私は一対の白璧を持ってきて、項王に差し上げようとし、一対の玉斗を亜父に与えようとしたのだが、あちらが怒っているので、どうしても差し出すことができなかった。貴公、私に代わってこれを差し上げてくれ。」と。張良は言った、「謹んで承知いたしました。」と。

 このとき、項王の軍は鴻門のもとにあり、沛公の軍は覇上にあって、その間の距離は四十里であった。沛公はそこで(乗ってきた)車と(従えてきた)騎兵をそこに残し、身一つで抜け出して、自分だけは馬に乗り、樊匍・夏侯嬰・盂彊・紀信ら四人の、剣と盾とを持ってかちで走る者といっしょに、驪山のふもとから、吮陽に通ずる道を通って、こっそりと近道を通って帰った。(別れ際に)沛公は張良に言った、「この道を通ってわが軍に至るまでは、たった二十里しかない。我々が軍に到着するころを見計らって、貴公は(項王の)陣営に入れ。」と。

 沛公はすでに去って、こっそり近道して自軍の陣営に到着した。張良は中に入って謝って言うには、「沛公は酔ってこれ以上は酒を飲むことができず、ごあいさつもできません。謹んで私め良に命じて、一対の白璧を捧げ、再拝して大王の足下に献上し、一対の玉斗を、再拝して大将軍の足下に差し上げよ、とのことでございます。」と。項王が、「沛公は、どこにいるのか。」と尋ねた。張良は、「大王が沛公の過ちをおとがめになるおつもりと聞いて、抜け出して独りで帰りました。すでに自軍に着いているころでしょう。」と言った。項王はそこで白璧を受け取り、それを座席のかたわらに置いた。亜父は玉斗を受けると、それを地上に置き、剣を抜いて突きこわして言うには、「ああ、こぞうめ、いっしょに策をめぐらすには不足じゃわ。項王の天下を奪う者は、必ず沛公であろう。わしらの身内は、今に沛公の捕虜にされるだろう。」と。沛公は自軍に到着すると、すぐさま曹無傷を誅殺した。

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