『源氏物語』で確認「知っておくべき古典常識一覧」受験で知らないと損すること

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受験国語の対策
悩む男の子生徒
悩む男の子生徒

古典常識ってどんなものがあるんですか?今の時代と結構違っていたりするんですか?

さとう
さとう

いい質問ですね。実は今の常識からは考えられないようなこともあるんです。そのような古典常識を知っておくと、本文が読みやすくなり理解も深まっていくんですよ。

悩む男の子生徒
悩む男の子生徒

気持ちを伝えるのに、和歌を使っていたことくらいしか知りません・・他にどんな古典常識があるのかぜひ教えてください!

さとう
さとう

そうですね!和歌はとても大事なことの一つです。しかしそれ以外にも重要な古典常識があり、古文を理解するうえで知っておくべきことなんです。

知らないと文を読むときに損してしまうので、この機会に確認しておきましょう!


この記事で分かる古典常識

・男女の恋愛と結婚
・貴族の住まい
・貴族の服装
・華麗なる宮中の世界
・後宮(天皇の妻たちが住んでいる場所)の女性たちについて
・宮中の貴族(男性)たちについて
・平安貴族の一生
・病と加持祈祷
・死生観と出家
・夢と現(うつつ)
・年中行事

これらの古典常識を『源氏物語』を中心に確認していきたいと思います。古典常識を覚えて、本文の理解力をさらに深めていきましょう。

※目次から知りたい古典常識のところをクリック(タップ)してみてください!

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男女の恋愛と結婚

現在とは全く違った男女の恋愛ルールと結婚スタイル。古文では恋愛を扱うものがとても多いので、これらの価値観の違いを押さえることが深い理解につながります。

「一夫多妻制」と「通い婚」(妻問い婚)

葵の上、紫の上、明石の君、六条御息所、末摘花、花散里、夕顔、女三宮、藤壺、朧月夜・・・源氏物語をめぐる女性たちはたくさん登場します。こんな光源氏を見てとんでもない女たらしだと思うのは「現代の感覚」です。平安時代の貴族は「一夫多妻制」なので、非倫理的なことではなかったのです。

ただし、藤壺や朧月夜との関係は身内の妻との関係(不倫)でしたから、これは当時の価値観でも不義理なこととなります。

結婚について現代と違うのはもう一点あります。当時は「通い婚(妻問い婚)」と言われる形式でした。男性が女性の邸に通うことで婚姻が成り立っていました。
(なので、「通ふ」という単語は「男性が女性のもとに行く」という意味になります。

「垣間見」や「音」から始まる恋愛

光源氏が若紫を見初めるシーンがあります。まさに垣根の間からのぞき見しているシーンです。平安時代、男女がじかに顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。(貴族中心に)
だから、評判(音)を聞きつけては、これぞと思う女性にアプローチ(和歌を送る)をしたり、垣根の間から、御簾や几帳の隙間から女性をのぞき見て、恋心を募らせていったのです。



手紙と和歌でアプロ―チ開始

男性は想いを寄せた女性に「文」(手紙・消息)を送ります。この手紙をとくに「懸想文」といいます。恋文・ラブレターですね。ラブレターは和歌をメインとする手紙です。和歌を受け取った女性も返事を和歌でします。(返歌・答へ・返し)
返事は素早く気の利いた内容でないといけません。(当意即妙といいます)

和歌のやり取りは、男女がじかに取り交わすのではなく、それぞれの従者や女房(世話係)が取り次ぎました。(例)光源氏 ➡ 従者 ➡ 女房 ➡ 女姫君
身分の高い家柄の女性は、親がYes・noの返事をすることもあります。その際に、親や和歌のうまい女房などが代わりに返歌をすることもありました。


恋が愛になり、結婚に至る

文と和歌のやり取りが続き、めでたく両想いとなると、男性は女性の部屋で一晩を過ごします。ただし、朝明るくなる前に男性が返るのがマナーでした。そして自宅に戻った男性は、女性に文を送ります。これを「後朝の文」といいます。
男性が女性のもとに三日連続で通えば、結婚となります。三瓶の夜に女性の家では、新郎新婦となった男女に餅をふるまいます。「三日夜の餅」という儀式です。うづいて、男性は女性の家族に紹介されます。「所(露)顕し」という婿披露の儀式です。

コラム【和歌】について

三十一文字に想いを込めて
男女の恋愛ツールでもある和歌ですが、それだけではなく和歌は平安貴族にとって男女問わず必須の教養でした。うまい人が能力の高い人間という指標になります。
男性の場合は漢詩も必須教養でした漢詩は中国の歌なので、唐歌とも呼ばれます。和歌は大和歌・言の葉・敷島(日本)の歌・三十一文字などと呼ばれていました。


貴族の住まい

豪華絢爛な寝殿造りの邸

家の主人の今である寝殿を中心に、色んな部屋が渡殿と呼ばれる廊下で結ばれています。寝殿造りの北にあるのが北の対です。正妻の部屋です。なので正妻のことを北の方とも呼びます。
寝殿の左右にあるのが、東の対と西の対です。主人の家族が住みます。寝殿の前には壺と呼ばれる庭があります。その庭には池があり遣水(やりみず)という小川が引かれ、中央に中島という島を浮かべています。
池と庭の左右には釣殿と呼ばれる部屋があり、宴会や納涼などに使われていました。邸は築地という土塀で囲われています。門は三か所あり、東の門・西の門・女性専用の北の門と呼ばれました。


「寝殿」の部屋の中

主人の部屋である母屋。(部屋の中にまた部屋があるイメージです)
その中に几帳(移動式のカーテン)や屏風があり、さらに見えなくすることができます。几帳は寝殿の周りを囲むようにも置かれています。
部屋へは妻戸(引き戸)や遣戸(両開き)から入ります。窓の役割をしているのが蔀戸(しとみど)や格子です。これらの窓を開けた時に部屋の中が見えないようにするため、簾(御簾)を格子や蔀の内側につるしてあります。
風通しが良く夏は涼しいのですが、冬は寒くなります。また照明はほとんどなく昼間でも部屋の中は薄暗くなります。夜は手元以外何も見えないという状態でした。


貴族の服装

時と場合によって変えた服装(読解のヒントになります)

平安時代の女性の代表的な服装は十二単です。十二単とは、十二枚の着物を重ねるということですが、必ずしも十二枚ではありませんでした。季節や参加する儀式に合わせて枚数を決めていました。
重ね着の一番上に羽織る着物を「唐衣」と言います。唐衣を羽織、「裳(も)」をつけて、手に「扇」を持てば、女性の正装(女房装束)となります。


一方、男性の正装は「束帯」と言います。を着て、をかぶり、笏(しゃく)を手に持てば、男性の正装のできあがりです。昼間、宮中に参内するときの格好がこれです。昼(日)の装束と言います。
男性の略装は直衣(なおし)と指貫を着て、冠のかわりに烏帽子をかぶります。宮中での夜勤の際に来たので、宿直装束と呼びます。直衣のほかに狩衣を着ることもあります。


華麗なる宮中の世界

天皇家の人々の住まい

天皇とその家族の生活の場が宮中です。宮中は内裏・九重・雲の上・禁中・禁裏とも呼ばれます。
宮中の中心は、紫宸殿(ししんでん)という建物です。重要な儀式を執り行う場所でした。すぐ近くに清涼殿があり、天皇が普段の生活を行う場所です。
紫宸殿の奥には天皇の妻が生活する十二の建物(七殿五舎)があります。すべて合わせて後宮と呼びます。清涼殿から渡り廊下ですべて繋がっています。



天皇の妻たち

後宮の中で特に重要なのが、弘徽殿(こきでん)壺です。どちらも清涼殿から近い場所にあり、有力な妻の住む場所でした。源氏物語にもこの名前で人物が出てくるように、妻たちは住んでいた建物の名前で呼ばれます。物語でも、桐壺の更衣をいじめる「弘徽殿女御」と頭の中将の娘である「弘徽殿女御」が出てきますが、二人は全くの別人です。
清涼殿から最も遠い桐壺には、最も有力ではない妻が住みました。天皇に呼ばれた時は、他の妻たちの部屋の前を通って行かなくてはならないので、心境も読み取れますね。(源氏物語にもありますが、社会的な地位が有力ではなくても帝から寵愛されれば何度も呼ばれます。そんな桐壺更衣を他の妻たちは邪魔な存在と思ってしまいます。)


後宮の女性たちについて

激しくも厳しい愛の争奪戦の理由

後宮の女性たち、つまり天皇の妻たちは激しい愛の戦争を行っています。
天皇の妻は身分の高い順に、中宮・女御・更衣となっています。中宮は天皇の正妻の事です。中宮はふつう一人ですが、まれに二人になった時、一方を皇后といいました。女御・更衣は複数います。

妻たちの身分の高さは、天皇の愛情の多さではなく、親の身分を反映しています。しかし、この時代は身分が絶対的なものなので、身分が高いので中宮が一番愛され、それが一般的でした。
そんな中、源氏物語で桐壺の更衣が天皇の特別な寵愛を受けていたのは異常事態です。桐壺更衣が他の妻たちからすさまじい嫉妬をかっていたのはそういうわけなのです。



また、後宮は貴族たちの権力争いの代理戦争の場でもありました。天皇の妻となった自分の娘が天皇の子を産み、その子が将来天皇になれば、自分は天皇家と親族になり、絶大な権力を得ることができるからです。こうして得た力で政治を動かすことを外戚政治と言います。
源氏物語でも、光源氏と頭中将が、お互いの娘(光源氏は養女の梅壺、頭中将は弘徽殿の女御)が天皇の寵愛を受けるために花火を散らせるシーンがありました。

前斎宮は梅壺のこと


宮中の貴族(男性)たちについて

家柄がものを言った出世争い

平安時代の日本の政治を担ったのは、天皇を中心とした貴族階級でした。貴族たちは権力を求め、より高い地位に上ることを目指しましたが、出世できるかどうかは家柄の良い・悪いに大きく影響されました。
貴族たちがまず目指したのが「五位の位」です。五位以上四位の貴族は「殿上人」と呼ばれます。天皇が日常いる場所である清涼殿の「殿上の間」に出入りを許された人たちという意味です。
五位の次が三位です。三位以上は、国の政治を決める超重要なポストでした。わずか二十数名しかいない選ばれしものです。「上達部(かんだちめ)」と呼ばれました。

役職名と官位を覚えておくと、古文読解の助けになります。ぜひ頭に入れておきましょう。


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※「古典世界をもっと知るためにもっと楽しむために」より


 

平安貴族の一生

わずか四十年余りの、華やかにも短き一生

誕生して三日目、五日目、七日目、九日目の夜に産養いという誕生祝いが行われます。その後も50日後の五十日の祝い100日後の百日の祝いという成長を祝う儀式があります。
さらに3歳から7歳の間には袴着という、袴を着る儀式もあります。

五十日の祝
袴着

12歳から16歳ごろには、男の子も女の子も「成人」となります。男の子の成人式を「元服」「初冠」「冠」といいます。成人すると同時に官位も授かります。官位に応じた色と形の冠をかぶることになります。女の子の成人式は「裳着」と呼び、裳をつけて髪上げをします。

元服・裳着

平安時代の貴族の寿命は30代後半位とも言われています。すからか40歳は十分に長寿で、「四十の賀」といいます。どんなに栄華を極めようとも、避けられないのが死。古文では「死」と直接表現することはありません。

死を意味する言葉

・いふかひなくなる
・はかなくなる
・いたづらになる
・むなしくなる
・いかにもなる
・隠る
・失す
・消ゆ
・身罷る
・見捨つ

このような言葉などで「死」を言い表します。

伊勢物語絵巻九七段(四十の賀)

人が死んだ後には、仏事の法要が行われます。葬儀・法事・法要を「後の業」といいます。また、四、五四十九日を「七七日(なななぬか)」といい、その間、七日ごとに「七日七日(なぬかなぬか)」という供養が行われました。

病と加持祈祷

原因不明の病気はすべて「物の怪」のせい

『源氏物語』のなかで、光源氏が病を患い、名高い僧に加持祈祷をしてもらいにいくシーンがあります。当時も医者はいたのですが、病に対する有効な治療法はもっておらず、治りにくかったり原因のわからない病気は、すべて「物の怪」のせいとされました。物の怪とは、悪霊などの不可思議な存在をいいます。

病の原因が物の怪ですから、これを取り除くことが治療となります。具体的には僧に加持祈祷読経をしてもらうことです。加持祈祷は修法・業ともいいます。

木母寺公式ホームページより「加持祈祷の様子」
病になることを意味する言葉

・わづらふ
・あつし
・なやむ
・心地例ならず
・心地悪し
・乱り心地
・おどろおどろしき心地


病になることを古語では、などと言います。
治ることは、「験あり」「おこたる」「さはやぐ」です。

死生観と出家

なぜ平安貴族は出家を望んだのか

「源氏物語」のラストのシーンで、光源氏は自分の力ではどうにもならない・抗えない何かに翻弄される自分の人生を「宿世(すくせ)」によるものだと悟ります。

「現世に起きた、人間の力では変えられないことは、全て前世での行いの結果である。」こうした世界観を宿世観といいます。宿世は仏教用語です。当時の世界観は仏教的世界観が中心でした。

仏教的世界観でもう一つ大事なのは、無常観です。「常なるものは無い」「すべてのものは絶えず生まれては消えていく」という考え方です。

抗うことのできない宿世と死は避けられないものであるという認識は、現世を辛く・はかないもの・苦しみの多いもの(=憂き世)と捉える考えに繋がります。

この憂き世を逃れ、仏門に入ることを「出家」といいます。源氏物語では、紫の上が出家を懇願するのを、最後まで光源氏が拒むシーンがあります。
出家するということは、それまでの男女関係や家族関係を全て断ち切るということでもあるからです。

出家を意味する言葉

・世を捨つ
・世を離る(かる)
・様を変ふ
・発心す
・頭おろす
・御髪おろす

これらの言葉が出てきたら「出家」を表します。どのような心情になるのか・どのような場面なのかを読み取っていきましょう。

 


夢と現

夢と現(現実)は表裏一体

古典世界(平安時代)では、夢は現実と表裏一体のものと考えられていました。どんな夢であってもそれをただの夢とは考えずに、夢解きという人にその夢が何を意味しているのか占ってもらいました。(夢占)源氏物語も、夢解きによって、3人の子どもの将来を知らされたシーンがあります。

占いといえば、夢以外にも様々な占いが行われ、その結果は実際的な行動指針とされていました。源氏物語の冒頭で、光源氏が臣籍降下とされたのも相人(人相を見る人)による占いの結果でした。

さとう
さとう

夢や占いをもとに重大なことまで決めていたなんて、現代の感覚からしたら信じられませんよね。こうした感覚の違いも古典世界を理解する重要なポイントとなるのです。

夢占の結果、良い夢(吉夢)だった場合は、人には話さないで内緒にします。人に話すと吉夢が実現しなくなってしまいます。
悪い夢(凶夢)だった場合は、夢違へという儀式をして、凶夢を吉夢へと変えるのです。


年中行事

平安時代の貴族にとって儀式はとても大切なことでした。古文も年中行事の様子が数多く描かれています。つまりは、年中行事を知ることが古典世界の理解につながります。

節会(せちえ)

季節の変わり目に天皇が宮中に臣下を集めて開く宴会です。白馬の節会(一月七日)・上巳(じょうし)(三月三日)・端午の節会(五月五日)・乞巧奠(七月七日)・重陽節会(九月九日)などがあります。

年末年始の行事

元旦には天皇が国家の安泰と豊作を祈願する四方拝、年末には清涼殿で僧侶が一年の罪の消滅と仏の加護を祈る御仏名が行われました。

人事異動

春には地方官を任命する「春の除目(県召の除目)」が、秋には宮中の役人を任命する「秋の除目(司召の除目)」が行われます。

民間のお祭り

源氏物語でも出てきた賀茂祭り(葵祭り)が重要です。とても大きなお祭りで、祭りといえばこの祭のことを言いました。


まとめ・終わりに

いかがでしたか?現代とは異なった古典常識が多くありましたね。
もちろんこれらが現代まで残って、いまもなお行われているものもあります。古き良き日本の伝統や文化となっています。

古典常識を覚えることは、作品を読解する上でとても役に立ちます。今回取り上げた古典常識は、基本的なことばかりです。ぜひすべてを覚えて、作品をより深く理解できるようになり、受験やと役立てていただければありがたいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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